死の概念

伯父がついに諦めたようです。これで祖父は事実上死亡したことになりました。肉体的にはまだ生存していますがあと1週間も持たないそうです。
先週火曜日に瀬戸際に立ったそうですが、そこで医者から一つの選択肢を提出されたようです。このまま自然死にするか一か八かで集中治療室にいれるか。祖母と伯父ですごい議論になったそうです。結局、集中治療室に入れることにしたが回復の見込みは出なかったのだが、それでも伯父は最後まで諦めなかったようです。うちの親戚はどうやら死に関して寛容なようで、私も含めて入院の時点でもう駄目だろうと心のどこかで思っていたようです。唯一伯父だけが回復できると信じていたようです。なぜ伯父だけが祖父の回復に固執していたかというと複雑な家族事情にあると思われますが割愛します。

葬儀は死という現実を受け入れる作用があるという話を聞いたことがあります。実際に死しても死を受け入れられない。確かにそういうことは少なくはないかもしれません。そう考えると生きている間から死を受け入れるというのは至難の業なのかもしれません。脳死を死と受け入れられない人が多くてもちっとも不思議ではないでしょう。祖父は脳死ではないですが回復見込みもなく、既に意識も失っている。医療行為を続ければ一応まだまだ生きながらえることは出来るそうですが家族はそれを望みませんでした。その時点で家族は祖父の死を受け入れたのでした。
医療の発達とともにこういった問題はどんどん発生していくでしょう。どこから死とするか?結局のところ、本人(は普通は意識をうしなっているだろうけど)と家族や担当医が決めることでないでしょうか?私の母は昔から脳死は死であると言って、自分がそういう状態になったらすぐに医療行為をとめてほしいと言っていました。私も同意なのでもし母がそういう状態になったらその意見を尊重したいと思っています。実際にそういう状況になっても同じ意見が言えるか?そういう疑問もあるでしょう。しかし私は非情な程に死に寛容なのでおそらく同じ意見を言うでしょう。そして「お疲れ様でした。いままでありがとう」と笑顔で送るでしょう。たとえ涙を流していたとしても。