形容詞の個人定義

形容詞というのは主観的な部分がおおい。まあ、形容詞に限ったことではないが状態を表す言葉は人によって重みが違う。同じ状態のものを指していても使う形容詞が違ったり、同じ形容詞を使っていても全然違うものを指していたりすることもよくある。なので会話内で形容詞を使われたら注意する必要がある。その人にとってその言葉の重みを知らないと大きく勘違いする可能性があるからだ。
「あのゲームは簡単だよね」といわれて簡単だと鵜呑みにするととんでもないことになるのは分かるだろう。言った人間がゲームが苦手な人なら実際簡単な可能性は高いが、やり込みの神だったら全く当てにならない。ひょっとしたら本当に簡単な可能性もあるがそれは実際やってみないとわからないので情報としては意味を成さない。しかし、その人がやり込みの神であったとしても、難易度の表現を一般の人、もしくは話相手を基準に表現できる人であったなら話は別になる。しかしその場合はちゃんと基準も一緒に表現するだろう。「このゲームは始めてやる人でも簡単にクリアできるよ」といった感じで。こういったことは本当は表現する方が注意して表現すべきだと思うのだが実際には省略されることが多い。ので聞く側が注意すべきである。「この人は簡単だというが、それは一般的な話かそれともこの人にとってなのか・・・」ととりあえずは疑うべきである。実際には失礼にならない程度に確認すべきでしょう。もちろん、どちらであっても確信がもてるなら聞く必要などない。やり込みの神が難しいというゲームなら一般人でも当然難しいだろう。
これを逆手に取れば、その人の形容詞の重みというのが計ることができる。ある人が「このゲーム簡単だよ」と言ったとしよう。そのゲームを実際にやってみれば実際の難易度が分かるだろう(正確には自分にとっての難易度)。そうすればその人の「ゲームに対する『簡単』の重み」が分かる。そうすれば以降、ゲームの難易度をその人の表現で実際の難易度も測定できる。さらに頑張ってその人の重みを測定すればうまくいけば「簡単」という言葉のその人の一般的な重みまで測定できるかもしれない。どんな分野であろうとかなり難易度が高くとも「簡単」という表現を使う・・・といった具合に。こうなってくると、この人の「簡単」という言葉の重みがかなり軽いことが分かる。つまり、大抵のことは「簡単」という表現になってしまう。簡単と言われても信用ができない。逆に「難しい」という言葉の重みがかなり重くなってくる。その人が難しいといえばそれはかなり信用ができる。そうなってくると、その人の言葉の信用度も形容詞からよみとれてくる。
形容詞一つで信用問題まで発展してしまったが実際結構重要なんじゃないかとおもう。下手に形容詞を多様するとその形容詞に関する信用をうしなうことになる。もちろんこれは形容詞にかぎったことでないので注意が必要だ。その人の能力に直結する内容ならなおさらのことである。「私はパソコンが使えます」なんて表現を簡単に使うべきではないだろう。もしメールやり取りしか出来ない程度でこんな表現を使おうものなら「使えます」の表現の信用を一気に落とすだろう。もちろん、パソコン以外に関しては「使えます」の重みが重い可能性もあるがそこまで相手がいちいち調べてくれるとは限らない。場合によっては、以前書いた「補完能力」も相乗して「あの人の「出来る」は信用ならない」まで発展しかねない。他にも、「知っている」「詳しい」「自信がある」等も自分に対して乱用すべきではないでしょう。
とまあ、ちょっと怖い(?)話になりましたが、形容詞は基準を明確にして使ったほうが無難ということですね。面倒でもやるべきだと思います。また、相手が基準なしに形容詞を使った場合は確認を取るべきでしょう。そうすれば信用を失うこともなければ誤解を招くこともなくなるでしょう。